財務諸表監査の基礎理論 序 文
 本書の目的は、財務諸表の適正表示に関する意見を監査人が表明するという財務諸表監査の枠組みのなかで、「会計表現の監査」と「行為の監査」の統合を図るための理論的枠組みを提示することにある。それは、監査報告書に記載された財務諸表の適正表示に関する監査人の言明(監査意見)について、監査報告書利用者が行う多面的な意味づけを、監査人の立証の対象である基本命題の認識意味に可能なかぎり反映させる−解明する−という構図のもとで構想された、監査報告論と監査証拠論との統合の理論である。そして、このような構図で構想された財務諸表監査を、「包括的企業監査としての財務諸表監査」と称する。これ以上の本書の構図については、「はじめに−監査学と財務諸表監査の基礎理論」とそれぞれの部の冒頭で行われている「視角」をお読みいただければ、幸いである。
 本書は、財務諸表監査の理論を構想するための概念的枠組みを理論的にどのように考えたらよいかという原点から構想された、財務諸表監査の基礎理論書である。それは、財務諸表監査の専門技術的側面に焦点を合わせた応用理論書でもなければ、監査実務書でもない。証券市場における公認会計士(監査人)の役割と「一般に認められた会計原則」の機能に関する基礎教育が十分になされていれば、そしてまた、作成された記載内容の異なる実際の監査報告書 2、3 枚が用意され、かつ、本書に展開されている概念装置について理解しようとする姿勢がありさえすれば、十分に読破できる財務諸表監査の理論書である。また、そのような理論書でありたいと、心して執筆してきた。
 学部2年生の時に科目登録した「現代経済学説」(マクロ経済学)において紹介されたハロッド教授の経済動学の理論は、伊達邦春教授の洗練された説明と相俟って、著者を魅了した。「理論(学問)にも“美しさ”があるのだ」と。少ない基礎概念を使って、経済成長の世界を可能なかぎり大きく説明する、理論の“美しさ”である。その当時の感激は、その後の著者の監査理論の設計のあり方に大きな影響を与えている。
 非常に残念なことであるが、監査理論−著者は「監査論」という呼び方を好まない−には、学派がない。そのことが、監査理論の現在の学問的水準を如実に物語っている。もし監査の世界に学派らしきものがあるとすれば、それは「監査基準書学派」(SAS school)と呼ぶべきものであろう。学派とは、ものごとを“同一の枠組み”で理論的に考え、それを支えようとする、研究と教育を通じての学者の精神的な繋がりであり、学問的こだわりの総称である。もちろん、学派は複数あってよい。さまざまな個性やバックグランドを異にする学者の理論的な考え方が同一の方向であるはずはないからである。監査理論の研究水準を飛躍的にレベル・アップするには、視点やアプローチを異にする学派は複数あってしかるべきであるし、また、かかる学派の間で激しい議論や論争がなければならない。その場が学会である。
 本書が結果としてたどり着いた財務諸表監査の理論を捉える視点は、「命題」(statement : proposition)である。その視点の理論全体における決定的な働きを重視するならば、著者は「命題学派」−そのようなものがあればの話であるが−の一員(propositionalist)である。「命題」らしき視点をもって監査を考えた始祖をあえて求めればモントゴメリー(Robert H. Montgomery)であろうし、命題学派の創立者を挙げるとすれば、マウツ教授(Robert K. Mautz)であろう。命題学派と呼ぶことのできる精神的な集団が形成されているかどうかは判断できないが、わが国における若手の監査理論研究者の間に、そのような視点からの監査理論への探求がなされていることは、注目されるべきことである。アメリカ会計学会でも、このような理論研究がないわけではない。財務諸表監査に限定していえば、命題学派の最も大きな、そして避けることのできない研究課題は、「財務諸表の適正表示は、何を意味するか」という問題の探求と解明であり、それに基づく証拠形成の研究である。それは、制度的には、「いかなる認識意味をそれに抱かせるか」という財務諸表監査にかかる公共政策とも連動する。それは、「何が財務諸表の適正表示の構成要因となるか」とは本質を異にする。
 旧加賀藩江戸上屋敷で行った最終授業(1997年)に科目登録した経済学部の一学生から提出された課題レポートの最後の頁に、以下のようなコメントがあった。この領域で永年学問的葛藤を続けてきた著者の疲れを本当に癒してくれる一文であった。と同時に、学部学生からのものであったことに、大きな感動を覚えた。ここに、そのまま紹介しておくこととする。
 なんとなく会計士の勉強に役立ちそう、という程の考えで出席しましたが、かなり内容が違っていて(良い意味で)驚きました。
 制度として説明する、政策としてのあるべき論、というようなものを超えて、ある職能についての理論を考えることができるというのは新鮮でした。「こんな学問(アプローチ)もある(ありうる?)のか」という思いです。
 かなり哲学的・論理学的な考察もしつつ、現実の制度などから離れられないというのは、ジレンマでもあり、また面白さでもあるように感じました。
 監査論について理解した、とは言えませんが、大げさに言えば世の中を見る目が少し広がったように思います。監査はこういうもの、という知識を得たという意味ではなく、世の中にはこんなアプローチもある、という視点を得て。
 学問というのは、1つの決まった形しか認めないようなイメージを感じて息苦しさがありましたが、違った角度から色々と考えてみようと思います。(伊東 朋)

 今回の執筆においても、家族には大きな負担と心配をかけてしまった。集中すると、他の世界が見えなくなる性格であるため、仕事場所と家とを往復することが多くなり、また離発着する飛行機が大きく見える場所などで、長期間外泊して研究に没頭することが多くなった。そのようなことまでしなければ、なかなか自分の時間を見出せず、また、完全に集中しきることが困難になっている現在の自分の状況を恨めしく思うこともあった。未完成であることは承知のうえで、西暦2000年までに、この研究プロジェクトに一通りの区切りをつけておきたいとの気持ちが強く、非常に激しく、不規則な毎日を送ってきた。この 1、2 年は、とりまとめの最終段階ということもあって、特に尋常ではなかった。妻光子には相当心配をかけてしまった。本日、この「序文」に際して、心より感謝する気持ちで一杯である。また、われわれ双方の両親や娘たちも健康で、穏やかな生活を送っていることの幸せにも感謝しなければならない。
 今回の著作には、秋月信二氏(埼玉大学)との監査認識をめぐる共同研究の成果の一部が反映されている。財務諸表監査理論に対する本書のアプローチに迷いがなくなったことが、共同研究の最大の成果であると感じている。自分の研究をまとめる段階になって、監査の世界一般を深く考えることのできる機会を、同氏と共有できたことに感謝しなければならない。何度も推敲を重ねなければ、文章がわかりやすくならず、また、章立や項目の順序自体を最初から大きく変更するという事態にも何度も陥った。「どのような流れで、どのように執筆すれば、理解可能な理論書となるか」、これが最大の課題であった。そのため、予想以上の時間がかかってしまった。辛抱強く脱稿を待っていただいた?国元書房社長國元義孝氏には、市場性のない出版を再びお引き受けいただいたことと併せて、お礼を申し上げたい。また、前社長國元孝治氏および同社専務取締役國元誠氏(故人)との間で、だいぶ昔お約束した、財務諸表監査の基礎理論書の出版にようやく漕ぎつけたことを大変うれしく存じている。
 それにしても、学問の道とは、厳しいものである。どんなに極めようと情熱を傾けて叩いても、なかなか学問の奥に通ずる「門」は開かない。学問に情熱を傾けることのできる学徒であれば、誰にでも一度は瞬間的に開くように思うのだが、一度閉めたが最後、今度はもう二度と開かない。これが学問の「掟」であろう。「門」が閉まらないように、せめて努力することしか著者には残されていないが、ただなんとなく「監査」という学問の世界が著者の掌の上に載ってきたように思われる。

西暦2000年3月20日
鳥羽至英
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